変わらなければ意味がない。
存在だけしていることに意味はない。
すなわち存在というインフラは無意味だ。
そんなことが言えるのはなぜ。
無意味が存在を包括するとすればどこから意味は生まれるだろうか。
変わり続けないことには既得権益が若い芽を全潰しにし、加齢臭で満たされたこのスペースで息をつく隙きが失くなってしまう。
存在はそれが主張である限り停滞であり、悪だ。
唯一停滞だけが、悪と言える。
なぜか。
良いことのためにはそのことが悪いの反対で無くてはならない。
なぜなら、良いも悪いもないということがあるからだ。
良い・悪いとは概念だが、また意味でもある。
よって存在が無意味というからには存在は良いも悪いもないということにもなる。
そしてこれは感覚と合致する。
意味は倫理の範疇を越え出ているようにみえるが、果たしてそうだろうか。
無意味であることを良くないこととして推し量ろうとする基準が人には備わっている。
構造物の有意味はそれが単に存在ではなく、生成の〈痕跡〉であるからだ。
〈痕跡〉にある意味性はそのところに見られる。
絵画は生成の〈痕跡〉であるし、あらゆるアートがそうだ。
〈痕跡〉的ではないアートはない。
存在は無意味であり、無意味であることを忌避する精神が存在する。
循環するものは美しいが、停滞するものは醜悪なのだ。
アウグスティヌスではないが、物性は単に存在的でしかありえないがゆえに悪であり、タレスではないが、流動を与える水は古くより物事の根源とされたりした。
人は驚くほどにその静止するものを見逃すように扱ってきた。
静止画は断面的であるがゆえに評価されるが、青にならない信号に役割はない。
二つの価値がある、生成するものと痕跡となるもの。
それがこの宇宙の特質なのだ。