羊のことば

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世界が存在しないことの様式


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世界は存在しないというのは分かった。世界が全ての意味の場についての意味の場であるという定義の下であれば。しかし、我々が世界を呼ぶ仕方は、そのもとで全ての意味が起こるということを第一義としているのではないとを今一度思い直してみよう。

 

世界とは、すべての意味の場の意味の場、それ以外のいっさいの意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である。(『なぜ世界は存在しないのか』、講談社選書メチエ、109頁)

 

世界は何より、そこに私が投げ出されて、私が対峙しなければならない現実として、まず私は経験するだろう。そこにおいて全ての現象が意味として浮かび上がる場所、ではなく、そこは本質として私を含まない、私を除く全てが現れる場所である。

 

世界はその点では、私の視野に等しい。私の五感、私の窓だ。世界とは窓だ。であるので、世界は私に現れる意味の場とはならない以上、世界が存在しないという構成上の理屈は実際成り立たない議論もできるが、ここではそこを深く追求するのは止めよう。今は世界が私にとって投げ込まれている当の場所であり、そこから私の内には無い意味が私に到来する(あるいは私が意味に晒される)場所ではあるが、私自身を産み出し、養育し、私を生きるようにさせた母体(コーラ)ではないということを言うに留めておこう。

 

マルクス・ガブリエルが存在の成立をそれ自身の論理的構造から否定する世界は、従って、限定的な使われ方の世界に限られる。そこにおいて全てが説明されるはずのXが想定されることを否定しているのだ。科学それ自体はガブリエルも是とするものであり、科学的知をすべての存在の「根源」と信じる主義主張に異を唱えているだけなのだ。ガブリエルはそれを偶像崇拝と同じフェティシズムによるものと説明する。

 

定義を違えればそもそも論が成り立たなくなるのは当然のことであり、あまりこの角度から追求してもフェアなやり方とは思えないので、世界の存在様式について述べるに当たり、全体主義的な言説に陥らないよう注意しながら論を進めるように努めることにしよう。

 

さてここで、世界ではなくでは何が私に意味をもたらすのかを問うならば、それは先程も言及したように「到来」によって、もしくは世界からの「出会い」において、と答える。意味がその偶発的に観測される「事件」とするところにそれが起きる場所である世界の意味からの疎外を確認することができる。

 

意味の場を再定義する。ガブリエルは存在は「常に意味の場において存在する」としている。私もその通りであると思うとともに、その意味の場は私と所与の「到来するもの」と出会うところにのみ成立する、と考える。意味の場とはここではデリダの引用するティマイオスの「コーラ」ということになる。そしてそれは常に存在の背後に退きつつも、存在「前」には存在を予期し、用意し、待望し、存在の現前とともに背景へと退くことを本質とする。

 

コーラとしての意味の場は、意味の場における意味の場ということをこそ成立させないものだ。すなわちコーラにおけるコーラというのはありえないのだ。意味の場はそのうちに現れるものの到来とともに消散してしまうからだ。コーラとは、語りえないものの類なのだ。

 

存在はあるコンテキストに「おいて」の他に存在することはない。というのは鋭い指摘だ。存在と場所は不可分な関係だ、そして、その「おいて」には存在という語に親しい程に一般的な概念として「場所」なるものが対応する。その場所こそが、意味の場なのだ。

 

世界は外なる対象だ。私の目を窓枠にした外の景色だ。世界はおそらく射影的なもので、現象から世界へは一方通行に投影する一方、世界の側から現象を復元することはできない。それはあくまで次元を減少させた影のようなものに過ぎない。それならば、世界のなかで世界を対象に取るようなことも可能ではないか。世界はプラトンの洞窟の壁に過ぎないのであれば。

 

世界は、世界のなかに現れてはこない。(同、110頁。)

 

意味の場とはそれでは一つの神ではないかという指摘について応答しなければならない。神は彼方のあなたとしてある。

 

存在の四つの様式というモデルを導入する。ここでモデルは世界像ではなくあくまで仮説的な試みの範疇を出ないことを断っておく。この、存在の様式は一般に存在というのとは異なっている。存在の様式は率直な言い方をすれば「ある、というこの感じ」だ。

 

私―世界―あなた―神

の四つを私にとって現に存在する四つの実体とする。私の窓から見える事柄の四種類の現れ方とも言い換えられる。これまでの、世界は存在しないという文脈での存在は、この四つのうち、「世界」に属する。それはただ在るという仕方の存在だ。物的であり、在るか無いかが問題とされる。

 

一方「あなた」はその物的な存在のあり方とは異なり、在るか無いかという問題範囲に収まることはない。たとえ「あなた」は実は存在しないのだとしても、それでではもうお終い、さようなら、という態度をとることはできない。その者はたしかに私に影響を与えたし、これからも私の亡霊であり続ける可能性がある。「実は存在しなかった」という事柄の真偽の価値の質が、「世界」に属する物に対するのとは決定的に異なり、その事態はそのまま私にとっての語りかけ(メッセージ)として受け取られる。「世界」における非存在は私にとってなんの関わりもないが、「あなた」の不在は、もう私に関わってしまったものの欠落という経験であることになる。

 

「神」はその向こう側だ。私ともはや無関係ではない窓の外との約束、また、契約の象徴的語法だ。世界は、日常会話的に私に対峙するものとして語られる場合、「神」に属するものかもしれない。「神」はもちろん神として語られるものであるし、運命や人権と呼ばれることもある。それは私自身をこの現実に「相応しくする」約束と私が信じるものなのだ。

 

「私」は私が、私のことだと感じるもののことである。全てはここへと立ち戻ることによって、私にとっての意味となる。

 

宗教の特質は私が自分自身に対し隔たっていることにその本質があるというのがガブリエルの表現だ。そして、これは「神」を「私」に見出すことが大切なのだということと解釈できる。

 

神とは、どんなものも――たとえわたしたちの理解力を超えていようとも――けっして無意味ではないという理念にほかなりません。(同、220頁。)

 

キルケゴールの定義によれば、「神」とは「すべてが可能である」という事実のことだからです。(同、235頁。)

 

芸術においては、退くものとしての背景の気付かせを近代芸術は明確に企図していることをガブリエルは伝えている。

 

対象は、そのようにしてわたしたちと世界とのあいだに立ち、自らの身をもって自らの意味の場を覆い隠すとともに、世界それ自体は存在しないという決定的な事情をも覆い隠しています。(同、267頁〜268頁。)

 

結局の所、いっさいのものは何らかの背景の前に歩み出ていますが、当の背景がそれ自体として前に歩み出ることはありません。たとえばマレーヴィチの作品を出発点とする思考の歩みを自らたどってみれば、このことに気づき、世界は存在しないことがわかります。いっさいのものがその前に歩み出ているような究極の背景それ自体などというものは存在しません。(同、268頁。)

 

意味の場が何者をも存在することを受け入れる揺りかごであるのはやはり「神」のようであるが、その形而上学的性質の非形而上学的遺失によって、意味の場は形而上学であることを免れている。

 

意味の場は上述の四つのカテゴリのいずれにも属さない、というのは意味の場であるコーラは私の窓そのものであるからだ。つまり存在の到来を待ち望む額縁、用意されているのは絵ではなく額縁、そこにおいて絵画はまっさらな状態から描かれるのだという当の舞台。絵画は我々はそれが白紙から描かれたというその事実性に価値を見出すのだ。

 

ガブリエルの言う主観的パースペクティヴィズムでもなく客観的パースペクティヴィズムでもない「存在論的な事実としてのパースペクティヴィズム」は、この地平を指していると考えることもできる。つまり、人は自分の持つ窓からしか《世界》を眺め渡すことができないという有限性とその後の地平を。

 

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』は全体主義の萌芽的心象とすら決定的に決別する書だった。そうであることに疑いの余地はない。しかし私個人としてはこの四つのカテゴリにおける意味の場すなわちコーラの位置づけを見出だせたことが最も大きい収穫だった。

 

思弁的実在論の旗手メイヤスーの『有限性の後で』にせよ、新しい実在論ホープ・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』にせよ、彼ら新しい時代が声高に呼びかけているのは、どの信念信仰も等しく実在可能的であること、そして唯一つあるいは有限数の真に実在する実体のみ可能であるという主義主張を排除すべきであるということだ。

 

そこから語り始められる哲学とはなんだろうか。

私にとっての外部である世界から意味がどのように私に訪れるか。この《私》として何が大切であるかは未だ明らかにはされておらず、この地平の先にある予感を抱く。

有限性の後での後で

カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』(人文書院)を半年くらいかけて読了した。

哲学史を時代として求められている科学哲学に引き継がせるための基礎研究的側面があった。

次回への課題は数学の絶対性と安定性を存在的および存在論的に(もちろん事実論的原因から)証明する、ということで、それを早く読みたい気持ちだ。

一番の見所として、副題にも示されているように〈偶然性〉こそが必然的かつ絶対的で、それ以外はそうではないということを明らかにする展開が非常にスリリングで、読み物としても楽しめた。

非常に雄弁で、時に詩的にもなる文体は半年も私を惹きつけて止むことはなかった。

しかし、難解は難解で、私では半年かけてやっと一周を終わらせることができる程には思考力を伴う読書だった。

この書自体は、情熱的に強い動機のもと書かれたのだろうことは一目瞭然で、それは科学への思考を哲学として行うにはあまりにも乖離した、カント由来の非接触主義的現代哲学思潮を打破したいという、〈喫緊の課題〉の解決を望むべく練られていた。

若干辟易するのはその思いの強さゆえの性急さだろうか。

ただ確かなのは、カントから現代へ続く思潮を相関主義と呼び、それがもたらした哲学の科学に対する冷めた視座への批判の精確さ鋭敏さには驚嘆の色を隠せないということだ。

恐ろしく秀逸な時代的書物だ。

2006年に著されたこの書物はもう古典だというのに、それ以後大学生だった私の耳にはついぞ聞こえてこなかったのは、この素晴らしい訳書がおこされたのが2016年になってからだったのだ。 その頃にはもう社会人だった。

仕方のないこととはいえ、なんとなく悔やまれる。

私にとって、いま、『有限性の後で』の意義とは、必ずしもメイヤスーの筋書きに完全に沿うものではない。 おそらくカント批判にこそこの書物の歴史に対して与える影響の真髄はある、と見ている。 それというのは、相関主義のスキャンダルの暴露からの絶対性の復権への道筋を勇敢にも示したことだ。

勇敢にもというのは現代のこの哲学者を茶化す意味合いでも、無条件に崇拝する意味合いでもなく、後追う者に哲学をする勇気を与えたという意味だ。

相関主義のスキャンダルとは、絶対主義的主張への否定にはまず必ず(およそ必然的に)その絶対性を思考しアクセスせずには、その必然性の否定の活動を行えないということだ。 すなわち相関主義は絶対性を思考でき、かつそのどれもが必然的でないことを知っている。 それは偶然性(非必然の知)の絶対性を認めなければ成り立たないとまで言い切る。(p.96より)

絶妙で繊細な議論だ。

もう一度この書物を読むだろう。 その時に簡単な形式化をしてみたいと思う。

人間

人間が<究極には無意味でない>地平が、人間個人には無く、誰も持ち得ることがない<人間の総体>にあるのかという疑問が解消されないでいる。

 

何者か秀でた者達のみが<人間の総体>的になし得た偉業に携わることができ、そうでない一般の消費者には、その層を支える経済に参画する権利と、そこから産み出された産物を観賞、享受する意味しかないとすれば、<人間の意味>とはなんだろうか?

 

特定の一部層のみが本質的に意味を為し得、それ以外の者達が全て代替可能の物でしかないのだとすれば、あまりに浅はかで救われない人間という存在だ。

 

だから、二つの主張を戦わせたい。

少数の能ある者のための<人間の総体>なのか、それとも一つ一つの淘汰され得る個体にも十全な意味が宿るのか。

 

そして、<人間の総体>と生というものがまさに生ききられる場所としての<個>が存在と意味にどう関わってくるのか。

ITが私達にもたらしたものAI

私達にITがもたらした価値を位置づけるとこうだと思う。

時間、速さ、体験、能力

そして、ITがもたらすものそのものはこうだと思う。

  • Automation
  • Remote Comunication
  • Simulation

人の手を離れての人の代わりをするであり、 人をいついかなる時でもつなぐであり、 過去から寄せ集まったもので未来に近似するものを導き出す粘土

それで必要十分なのかなと思う。

人間がこのITに求め、それ以外をITに求めないその価値とは、 時間と能力だ。

ITは人一人の肉体由来のスピードの限界とスタミナの限界を凌駕していくものだ。

ITはこれまでのあらゆる技術に関わり、既存のそれらを限りなく増幅していく。

  • Extended
  • Amplified

それが、ITの技術に対しての特質だ。

そして、いずれ、ITは私達をここへと誘っていくだろう。

  • Virtual

仮想的であることはこれからどんどん加速していく。 そうでないような未来はきっとありえない。

  • AI

私達はついに出会うことになるのだろう。 ITに対して、出会うということがあるとしたらきっと、AIにということの他無いのだから。

これらのキーワードを忘れないように書き留めておきたい。

書く行為

映像との対比において、文章はその芸術的役割を終えたのか。

 

相対的に、文章は思想的意図を伝える担いが増したとは思う。

 

すなわち、それぞれの表象手段が、その役割の範囲をより一層狭め、モジュール化している、そのような時代にあると思う。

 

この考えは、当時セミプロの女流詩人が、「映画はもう文学を越えている」と語った8年前からずっと、心の片隅に網を張っている。

 

映像技術の躍進により、映画で表される表現と迫力・美は文学と並ぶ手前にある臨界点をとうに突破したのだろう。

存在の無意味、生成の有意味

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変わらなければ意味がない。

存在だけしていることに意味はない。

すなわち存在というインフラは無意味だ。

そんなことが言えるのはなぜ。

無意味が存在を包括するとすればどこから意味は生まれるだろうか。

変わり続けないことには既得権益が若い芽を全潰しにし、加齢臭で満たされたこのスペースで息をつく隙きが失くなってしまう。

存在はそれが主張である限り停滞であり、悪だ。

唯一停滞だけが、悪と言える。

なぜか。

良いことのためにはそのことが悪いの反対で無くてはならない。

なぜなら、良いも悪いもないということがあるからだ。

良い・悪いとは概念だが、また意味でもある。

よって存在が無意味というからには存在は良いも悪いもないということにもなる。

そしてこれは感覚と合致する。

意味は倫理の範疇を越え出ているようにみえるが、果たしてそうだろうか。

無意味であることを良くないこととして推し量ろうとする基準が人には備わっている。

構造物の有意味はそれが単に存在ではなく、生成の〈痕跡〉であるからだ。

〈痕跡〉にある意味性はそのところに見られる。

絵画は生成の〈痕跡〉であるし、あらゆるアートがそうだ。

〈痕跡〉的ではないアートはない。

存在は無意味であり、無意味であることを忌避する精神が存在する。

循環するものは美しいが、停滞するものは醜悪なのだ。

アウグスティヌスではないが、物性は単に存在的でしかありえないがゆえに悪であり、タレスではないが、流動を与える水は古くより物事の根源とされたりした。

人は驚くほどにその静止するものを見逃すように扱ってきた。

静止画は断面的であるがゆえに評価されるが、青にならない信号に役割はない。

二つの価値がある、生成するものと痕跡となるもの。

それがこの宇宙の特質なのだ。

神様コンサルタントを選ぶべき理由

心に病を患ったとき、何かの空虚に耐えられなくなったとき、あなたはどのような手段を選ぶだろうか。

一番に対処しなければならない耐え難い感情をまずは取り払ってしまいたい、と思うだろう。

最初はあなたは一人で悶え苦しむかも知れない。でもそれがいずれはひどくまずいことになる戦略であることをいち早く察知するだろう。

何かを失ってしまう。時間に由来する何かを。であるから何かを始めなければならない。ということでいくつかの方策を思いつくことになる。

スピリチュアルは、週刊誌に載っている、最もカジュアルな手段となるだろう。 ただ少し、重みに欠ける向きはあるかも知れない。 人生をカジュアルに捉えるには悪くない選択肢だが、大人が選ぶには多少甘ったるさが目立つ。 ごく幼い感受性から成り立っているため、あなたの苦悩が深く荒んでいればいるほど、ひどく頼りなく思えるようになるだろう。

趣味に没頭するのは良い選択肢とは言えない。 なぜならあなたはその深い苦悩によって一つの境を飛び越えてしまったのだから、いまさら幼心の執着に由来する習慣などに戻ることに意味はないのだ。 意味はあなたの中にある。 あなたの選択いかんによっては、あなたは何者でもなくなるような危機が実はすぐ隣りにあるのだということを自覚しなければ。

時間だけではだめだが、時間と愛するものを再び探す旅の組み合わせはいかがだろうか。 まずまず、知性が垣間見える良い意見ではある。 その根本に喪失の無力化を、冷酷なまでに追求しようという意志が感じられる。 しかし、その戦略はあまりにリスクに対して寛容すぎる。あなたは再び絶望を味わうことになるに違いない。 それでも、その絶望を遅延させるには最も良い選択であるだろう。

ついに、あなたは二つに一つを選ぶことになる。 哲学か宗教か。 他の諸々の代替らはそのどれもが哲学か宗教かのどちらかを拠所にしている。 いやその視点こそがこの話の要点でもあるのだが。

哲学は多くの人には耐えられないだろう。 哲学は答えではないからだ。 哲学は過程であり、過程の本質であり、答えが無いことが答え、つまり、終わりが無い終焉だからだ。 哲学はその特性上不死である。ゆえに不死がもたらす不利益すべてをあなたにもたらすことになるだろう。

そこで宗教は、もうこれは本当に優秀なパッケージとしておすすめする。 ただし、これすらすでに古くなっていることに大勢が多分気づいているのだろう。 95年のあの事件以来この国ではそれはある意味タトゥーのような扱いを受けるに至った。 この国はそろそろ西洋人のミーハーでしかない女性解放運動だけでなく、宗教ハラスメントも止めたらいい。

そんな宗教の利点は、哲学と違い明確な答えを出しすぎるほどに出していることだ。 この世で最も才能のある人間が紡ぎ出した世界を享受できる。世界とは彼らの創作物のことだ。

最近は高速度数量所有信仰(現代資本主義)がお盛んではあるが、いささか事の興りの蓋然性に欠けるところがある。 その点宗教の多くは神か神に準ずるものを擁して枠組みから世界を逸脱しないようにさせる戦略をとっている。 神の設計は非常に難易度が高い代わりに、それに成功すると驚くほどの信仰性を獲得する。 人はそれに満たされることができることが分かってきている。

我々神様コンサルタントはそんな宗教に心の底から崇敬の念を覚えている。 であるから、悩める子羊たちにはぜひとも実績と信頼の伝統宗教を選んでいただきたいものだ。 本当に心から、我々はそれを望んでいる。

だが、どうだろう、そう簡単でも、ないことが、この無宗教時代に、よく明らかになっているのではないか。 この時代はもう、宗教を選ぶことを体制とはしていない。むしろ、宗教はスピリチュアルがプラスチックのように脆弱過ぎるのに対して、豪華客船のように堅牢過ぎている。 宗教は大洋をゆうゆうと横断できるかもしれないが、氷山にぶつかれば為す術もなく大海原に沈んでいってしまう。 そこから逃げ出す術はない。

そこで、我々が提示するのはあなたに合った宗教、あなたが信じられる物語。 それはあなた自身が思いつくには辟易するほどに集中力と時間を要するもの。 我々プロが時と場所を跨いで評価されてきた、ありとあらゆる信仰の様式の中から少しずつ要素を抽出し、加工し、冶金する鍛冶屋のようにあなただけのクラフトをお届けする。 それはあなたのためにカスタマイズされた宗教、あなただけの真実、あなたの世界。

あなたの病状に即した、きちんとあなたの傷を埋めてくれる、この世に一つしか無いあなたのための物語を提案いたします。