羊のことば

小さく小さく

書く行為

映像との対比において、文章はその芸術的役割を終えたのか。

 

相対的に、文章は思想的意図を伝える担いが増したとは思う。

 

すなわち、それぞれの表象手段が、その役割の範囲をより一層狭め、モジュール化している、そのような時代にあると思う。

 

この考えは、当時セミプロの女流詩人が、「映画はもう文学を越えている」と語った8年前からずっと、心の片隅に網を張っている。

 

映像技術の躍進により、映画で表される表現と迫力・美は文学と並ぶ手前にある臨界点をとうに突破したのだろう。

存在の無意味、生成の有意味

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変わらなければ意味がない。

存在だけしていることに意味はない。

すなわち存在というインフラは無意味だ。

そんなことが言えるのはなぜ。

無意味が存在を包括するとすればどこから意味は生まれるだろうか。

変わり続けないことには既得権益が若い芽を全潰しにし、加齢臭で満たされたこのスペースで息をつく隙きが失くなってしまう。

存在はそれが主張である限り停滞であり、悪だ。

唯一停滞だけが、悪と言える。

なぜか。

良いことのためにはそのことが悪いの反対で無くてはならない。

なぜなら、良いも悪いもないということがあるからだ。

良い・悪いとは概念だが、また意味でもある。

よって存在が無意味というからには存在は良いも悪いもないということにもなる。

そしてこれは感覚と合致する。

意味は倫理の範疇を越え出ているようにみえるが、果たしてそうだろうか。

無意味であることを良くないこととして推し量ろうとする基準が人には備わっている。

構造物の有意味はそれが単に存在ではなく、生成の〈痕跡〉であるからだ。

〈痕跡〉にある意味性はそのところに見られる。

絵画は生成の〈痕跡〉であるし、あらゆるアートがそうだ。

〈痕跡〉的ではないアートはない。

存在は無意味であり、無意味であることを忌避する精神が存在する。

循環するものは美しいが、停滞するものは醜悪なのだ。

アウグスティヌスではないが、物性は単に存在的でしかありえないがゆえに悪であり、タレスではないが、流動を与える水は古くより物事の根源とされたりした。

人は驚くほどにその静止するものを見逃すように扱ってきた。

静止画は断面的であるがゆえに評価されるが、青にならない信号に役割はない。

二つの価値がある、生成するものと痕跡となるもの。

それがこの宇宙の特質なのだ。

神様コンサルタントを選ぶべき理由

心に病を患ったとき、何かの空虚に耐えられなくなったとき、あなたはどのような手段を選ぶだろうか。

一番に対処しなければならない耐え難い感情をまずは取り払ってしまいたい、と思うだろう。

最初はあなたは一人で悶え苦しむかも知れない。でもそれがいずれはひどくまずいことになる戦略であることをいち早く察知するだろう。

何かを失ってしまう。時間に由来する何かを。であるから何かを始めなければならない。ということでいくつかの方策を思いつくことになる。

スピリチュアルは、週刊誌に載っている、最もカジュアルな手段となるだろう。 ただ少し、重みに欠ける向きはあるかも知れない。 人生をカジュアルに捉えるには悪くない選択肢だが、大人が選ぶには多少甘ったるさが目立つ。 ごく幼い感受性から成り立っているため、あなたの苦悩が深く荒んでいればいるほど、ひどく頼りなく思えるようになるだろう。

趣味に没頭するのは良い選択肢とは言えない。 なぜならあなたはその深い苦悩によって一つの境を飛び越えてしまったのだから、いまさら幼心の執着に由来する習慣などに戻ることに意味はないのだ。 意味はあなたの中にある。 あなたの選択いかんによっては、あなたは何者でもなくなるような危機が実はすぐ隣りにあるのだということを自覚しなければ。

時間だけではだめだが、時間と愛するものを再び探す旅の組み合わせはいかがだろうか。 まずまず、知性が垣間見える良い意見ではある。 その根本に喪失の無力化を、冷酷なまでに追求しようという意志が感じられる。 しかし、その戦略はあまりにリスクに対して寛容すぎる。あなたは再び絶望を味わうことになるに違いない。 それでも、その絶望を遅延させるには最も良い選択であるだろう。

ついに、あなたは二つに一つを選ぶことになる。 哲学か宗教か。 他の諸々の代替らはそのどれもが哲学か宗教かのどちらかを拠所にしている。 いやその視点こそがこの話の要点でもあるのだが。

哲学は多くの人には耐えられないだろう。 哲学は答えではないからだ。 哲学は過程であり、過程の本質であり、答えが無いことが答え、つまり、終わりが無い終焉だからだ。 哲学はその特性上不死である。ゆえに不死がもたらす不利益すべてをあなたにもたらすことになるだろう。

そこで宗教は、もうこれは本当に優秀なパッケージとしておすすめする。 ただし、これすらすでに古くなっていることに大勢が多分気づいているのだろう。 95年のあの事件以来この国ではそれはある意味タトゥーのような扱いを受けるに至った。 この国はそろそろ西洋人のミーハーでしかない女性解放運動だけでなく、宗教ハラスメントも止めたらいい。

そんな宗教の利点は、哲学と違い明確な答えを出しすぎるほどに出していることだ。 この世で最も才能のある人間が紡ぎ出した世界を享受できる。世界とは彼らの創作物のことだ。

最近は高速度数量所有信仰(現代資本主義)がお盛んではあるが、いささか事の興りの蓋然性に欠けるところがある。 その点宗教の多くは神か神に準ずるものを擁して枠組みから世界を逸脱しないようにさせる戦略をとっている。 神の設計は非常に難易度が高い代わりに、それに成功すると驚くほどの信仰性を獲得する。 人はそれに満たされることができることが分かってきている。

我々神様コンサルタントはそんな宗教に心の底から崇敬の念を覚えている。 であるから、悩める子羊たちにはぜひとも実績と信頼の伝統宗教を選んでいただきたいものだ。 本当に心から、我々はそれを望んでいる。

だが、どうだろう、そう簡単でも、ないことが、この無宗教時代に、よく明らかになっているのではないか。 この時代はもう、宗教を選ぶことを体制とはしていない。むしろ、宗教はスピリチュアルがプラスチックのように脆弱過ぎるのに対して、豪華客船のように堅牢過ぎている。 宗教は大洋をゆうゆうと横断できるかもしれないが、氷山にぶつかれば為す術もなく大海原に沈んでいってしまう。 そこから逃げ出す術はない。

そこで、我々が提示するのはあなたに合った宗教、あなたが信じられる物語。 それはあなた自身が思いつくには辟易するほどに集中力と時間を要するもの。 我々プロが時と場所を跨いで評価されてきた、ありとあらゆる信仰の様式の中から少しずつ要素を抽出し、加工し、冶金する鍛冶屋のようにあなただけのクラフトをお届けする。 それはあなたのためにカスタマイズされた宗教、あなただけの真実、あなたの世界。

あなたの病状に即した、きちんとあなたの傷を埋めてくれる、この世に一つしか無いあなたのための物語を提案いたします。

切実なリアリティをもって

あまりに語り尽くされていない。

表象はあまりに無言に消費され続けている。

オタクがどうして、アニメを享受し続けるのかとか、 少女がどうして、何度でも初恋を思い出すのかとか。

それから離れられなくなるその態度を誰も、あまりに語り尽くしていなさすぎる。

存在についてもそうであるし、神についてもそうであるだろう。

超越論的な言はもうできないのだから、日常を生きるように、非現実を語らなければ語り尽くせない。

語り尽くせていないということをいくら言っても足りない程に、あまりに口を閉ざしている。

存在はなんのために生まれ消える?

その期間を限定する稀有なアイデアに、何を閉じ込めたのか。

二重括弧で括られる〈〈神〉〉は、もはや人間を語るための概念的人物となった。

ここにはどんな役者が設えられるのか。 語るに尽くすのがちょうどいい、一生語り尽くすくらいでちょうどいい。

のっぺらぼう - 幻影スケッチ1 -

浜辺の寄りに道路があって、道路のつたいに防波堤があって、防波堤の終端にのっぺらぼうがいた。

さも当たり前のように、顔のない人はそこにいた。 その情景にとてもマッチしていた。

磯の匂いと穏やかな小波の調べが、のっぺらぼうを優雅に見せている。

白いつば広の帽子がはためいたので、そこにいるのが乙女であると気づいた。

赤の編み模様の肩の丸いシャツと、帽子に似合ったサイズのスカート。

その顔には笑みが似合いそうなものなのに、表情というものが存在できないのっぺらぼうの恨めしさ。

僕は少しだけ奇異な気を興して、顔のない乙女に話しかけようと思う。

「お元気ですか? 太陽が眩しいですね。 きっとのっぺらぼうでいるのは大変でしょう?」

それに対して乙女はなんと言うだろうか。 やはり口を利かないだろうか。

心が締め付けられるほどに悲しくなってきたが、乙女がその場を動くでもなく、空に顔を向けたその姿勢が天使を待っているようで、僕の後ろにものっぺらぼうは迫っているのではないかと不安にかられて後ろを振り向いた。

海に面したこぢんまりした駐車場だ。 白の業務用軽自動車が一台最初から停まっている。

視界を戻してもまだのっぺらぼうは立っていた。 少し腰を防波堤によりかからせていた。

レセプションとして心

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受容体として心はある。

 

そして心こそがその表出物の源泉たる揺らぎの媒体である。

 

あらゆる表出、表現、表徴は心より出で、心を指示するもっとも効果的な方便となる。

 

心由来の品には最上級の値が付くのだ。誰も買い取れないほどで、しかし誰かは買い取れる程度の値が。

 

レセプションたる心はモナドである。

 

それ事態は変質しない。ただ外界を、心の質に依り変形させて、映し出す。それはすべてを反射するのではなく、一部分だけアレンジしてまた外界へ返す。

 

見よ、それこそが世界の本質だったのだ。

 

我々の受容するものがそもそも反射されたものでないことがない。一番に近くて自分の反射物をしか見ることができない。

 

表されたものについてひとつのポリシーが立ち上がる。それは誰かの所有であることよりむしろ配列であり、配列がなにであるかと言えば、あるポジションからのランドスケープなのだと。

 

作品というものはその表出物を指すよりはむしろ表出者である作者自身を指すのだ。

 

これは中心性の欠如、無に取り込まれた(現実と和解した)形而上学プラトンのコーラ、もしくはもののあはれリバイバルを宣言するものだろうか。

意味と価値って?

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意味が意味することは、価値とは違う、というところから始めたい。

意味は何を意味するだろう。 何に意味があるだろう。 価値は何が価値だろう。 価値が意味するところと、何に価値があるか。

まずは似たところ、価値と意味が同じ文脈で使われることがある。

彼がしたことには価値がある。

彼がしたことには意味がある。

行為に対して、その評価を有価値とするとき、そこには目的と結果の合致が見られる。

行為についてその意味性を認めるとき、行為の目的に対する合致、言い換えれば、行為の有目的性というものが見られる。

インスピレーションで語ると、価値はいかにそれが誰かに(何かに)求められているか、意味はそれが指す対象が存在するか。

価値は力学的であり、意味は存在論的である、とそういう感覚だ。

価値も意味も何かとの関係において在るものではあるが、それらはある意味性そのものであり、つまりは個人の心に最終的に生じるものとして、個人の内に存在する。

意味性は何か現象として外界に存在するものではないとして。

悪魔の存在証明というものがある。或るものが有ることを証明するには一例を証明すれば済むが、或るものが無いことを証明するには、全事象を列挙し切らなければならない。

土台不可能なことを要求される。

これは意味が無いことを証明することの困難さを支持している。 意外なことに、意味のあることを言う方が容易であると言っているのだ。

では意味について何が難しいのだろう。

意味の無いと思われる文面について、それが本当に意味をなさないかを証明することが難しい、ということだ。